ビタースィート

作:酉(とり)
2007年9月 本文改訂/公開
2005年4月 原案/挿絵完成


――海は敵なのだと、オトウサンは言った。




   #1



 パンッと、顔を叩かれて【ボク】は目を開けた。
 ぼやけた視界で、最初にみたものは深い皺を刻んだ男の顔だった。
 暗闇の中、少ない明かりに照らし出される顔は、水に濡れてぐしゃぐしゃだった。
 飛礫(つぶて)のような雨と辺りの音が聞えなくなるような強い風の中、大地が絶え間なく揺れる。
 視線を横に落とすと、木目と何処までも続く闇が見えた。
 それが、ボクの乗っていた船で、闇に広がるのは海なのだと知ったのは、随分後のことだった。
 だってその時、ボクは生まれたばかりで、目の前にいる男が父親だということも知らなかったのだから。



「おはよう、ビター」
「今日はおでかけかい」
 ボクは、ビターって呼ばれてる。
 でも、オトウサンに抱えられて船から降りる前のことは覚えていない。
 みんながボクに朝の挨拶をしてくれていることはわかる。
 でも、ボクの口は返す言葉を忘れてしまった。

――ビター、ビター、ビター……。

 それでも街のみんなは、ボクに声をかけてくれる。
 だから、ボクも鳥が鳴くように声を出す。
 高いアの音を出して、手を振って答える。
 ボクは、その音が好きだから。
 みんなはボクの返事に喜んで、お菓子をくれた。
 でも、別れ際に哀しそうに目を潤ませて、顔を落とすのだ。

 【ボク】が【ビター】と違うから。

 みんなはビターが、「海に呪いを受けた」「海に魂を奪われた」と話していた。
 ビターは海が大好きな男の子で、暇があったら船を出していたらしい。
 でも、前の満月の日、彼はいつもの様に一人で海に出てそのまま帰らなかった。
 彼があまりに海を愛して、海からも愛されていたから、海が奪ったのだと噂が立った。
 海は、陸へと戻らねばならない彼を捕まえてしまったのだと。
 そして、代わりに帰って来たのが【ボク】だった。


 山から海まで続く、長い水路の縁を歩くのが、ボクの流行りだった。
 流れる水が、お日様の光を受けてキラキラと光っている。屈んで覗き込むと、小さな魚が流れに逆らいながら泳いでいた。
 水面に、ボクの顔が映る。
 揺れながらボクを見返すその顔は、みんなと同じ小麦色の肌をして、瞳はお家の屋根に使う大きな葉っぱと同じ色をしていた。
 オトウサンと同じ灰色の髪、顔立ちも似てる気がする。それは、ボクとオトウサンがオヤコだかららしい。
 ボクは沢山の人に、満月の日に何があったのか聞かれた。
 でも、ボクはビターの事なんて知らない。
 初めて見る人たちに囲まれて、困っているうちにみんなは余計に騒ぎ出した。
 生まれたばかりのボクが、何も知らないのは当り前なのに。それが、オカシイってさ。
 変だよね。
 【ボク】は、【記憶を失ったビター】何だってさ。
 そんな【記憶を失ったビター】の顔を見てるのにも飽きて、立ち上がった。
 次の流行りを目指して、水路沿いに坂道を下る。
 急な坂道を下っているうちに、白い石の建物ばかりだったのが、木のお家が増えてくる。
 その全てを見送って、ボクは真っ直ぐに海を目指した。
 港からは少し外れた浜辺に、緑の葉っぱの屋根と赤い布を掲げたお店が一軒建っていた。
 ビターのお店だ。オトウサンの手伝いで、みやげ屋を任されていたらしい。
 でも、ボクはお金の事も忘れているから、今はビターの友達が交代に店番をしていた。
 だから、ここに来ると友達も玩具も置いてあるんだ。
 それから…――。
 店の軒下に掛かっている鳥かごを見て、ボクの足取りが軽くなった。
 あの鳥がいるってことは、今日の店番はアンナだ。
 貝を繋げたのれんを手でのけると、犬がボクの胸に飛び込んできた。
 アンナの犬だ。こいつが居るってことは、アンナも中にいる。
 倒れた拍子に、のれんの貝がぶつかりあって涼しげな音を立てた。
「アハハ」
 ボクの顔を舐めまわそうとする犬を抱きかかえて、ボクは砂浜に転がった。
 真っ黒な瞳を輝かせて、犬はボクの上着を加えてひっぱる。
 一緒に、砂浜を走ろうというのだ。
 ボクはその願いを叶えようと立ち上がった。
「ビター!!?」
 アンナの声にボクは振り返った。
 白い前掛けをつけた女の子が、店から飛び出してくる。
 長い赤毛をひるがえして、ボクたちのところに駆け寄ってきた。
 彼女の真っ直ぐな空色の瞳に見られていると、ボクの頬が熱くなる。
 ボクは街中の人と挨拶したけど、こんな赤毛で色の白い女の子はアンナの他に見かけなかった。
「ア、ア…ぁ」
 何か言ってあげたくて喉をふり絞っても、出るのは変な音ばかり。
 ボクらの周りを、犬が駆け回った。
 ワンっとでも鳴ける犬が、羨ましい。
「……そっか。あなたの方か」
 そうしているうちに、アンナは溜息をついて肩を落とした。彼女の頬に緋色の髪がかかる。
 ボクが目覚めてから、何度もみた仕草に胸が痛む。
 ボクの笑い方がビターに似てるみたいで、アンナはボクが元に戻った――ビターの記憶を取り戻したんじゃないかと期待してやってきたんだ。
 そして、ここに居るのが【ボク】だと気づくと視線を落としてしまう。
 店へと戻って行くアンナの横顔は、泣き出しそうにも見えた。
 そんな顔をみていると、ボクまで目頭が熱くなってくる。
 アンナと初めて会ったのは、船から降りてすぐ、ビターのベッドで寝ていた時だった。
 代わる代わる街の人たちがやってきて、「俺を覚えているか」「喋れないのか」って同じ質問をボクに繰り返した。
 そんな中に混ざって、真っ青な顔の彼女が息を切らせて駆けこんで来た。
 みんなはボクが何も答えないでいると顔を曇らせるのに対して、彼女だけは「良かった」って、泣いて喜んでくれた。
 ボクの胸にすがり付いて何度も、何度も、お礼の意味の言葉を繰り返していた気がする。
 【ボク】のことを、そんな風に喜んでくれたのは彼女だけだった。
 アンナはビターの友達の中でも特別な存在だったんだって、後で他の子供が教えてくれた。
 ボクにとってもそうだ。
 街のみんなは【ボク】をビターって呼ぶけど、アンナだけはボクをそう呼ばない。
 【あなた】って言ってくれる。
 ボクとビターを別に見てくれる。
 それが、何故だか嬉しかった。


 ビターのお店は、玩具も遊び相手も何でも揃っていた。
 お店にいると、毎日誰かがやってくる。
 ボクより小さい子供も沢山集まってきた。
 お客さんより、みんなの遊び場になってるんじゃないかって思った。
 子供たちはビターから教わったという遊び方を、今度はボクに教えてくれる。
 貝取りや、笛に太鼓、布を頭や腕に巻いてみたり、逆立ちしてみたり、本当に色んなことを教えてくれた。
 だからボクも指差して、どんどん聞いてみた。
 ビターのお店に通うようになって、気づいたことがある。
 街の子供はみんな、腰に小さいお面をつけているのだ。
 木の実をくりぬいて作った面には、色んな顔があって同じ物なんてひとつもない。
 みんな、自分のベルトにしっかりと紐で括りつけてあった。
「これは母ちゃんと父ちゃんが、くれたお守りなんだ。大人になるまでは絶対、外しちゃいけないんだぞ」
 得意げに教えてくれる。
 ボクも自分のベルトを見てみた。
 でも、そこには千切れた紐しかなかった。
 ビターはそこにお面を付けていたのに何処にやったの? と聞かれても、ボクが生まれたときには、もう無くなっていた。
 【ビター】のお守りだったのだもの、きっと今も何処かで彼を守っているんだ。
 そうボクは思った。
 みんなは、ボクがビターだって言って、沢山彼の事を教えてくれるけれど、やっぱり他人事にしか思えなかった。
 街のみんなに好かれていて、子供たちのリーダーで、店番だって一人でやれて、船の腕前だってレースで優勝するくらい巧みだった。
 逆立ちひとつ上手くできないボクが、そんなビターと同じだなんてさ。
 お面に興味を失ったボクは、今度は太鼓を引っ張り出した。
 叩くと変な音がでて、いっぱい叩くと心が弾んでくる玩具だ。
 ふと、何処からか視線を感じた。
 顔をあげると、初めて見る男の子が遊びに来ていた。
 声をかけようとするよりも早く、彼はアンナのところに走っていって、
「やっぱりビターは記憶が戻ってるんだよ。だってこっちをみたもん」
 そう言って、ボクを指さした。
 アンナが悲しそう微笑んで答える。
 ついさっき、ボクがビターじゃないと確認したばかりだからだ。
 ボクは太鼓を前にして、手を止めた。
 彼女にそんな顔をさせたくないと思った。
 原因はわかってる。
 ボクがビターじゃないからだ。
 彼女は「無理に思い出さなくても良いのよ」って、ボクの頬を撫でてくれた。
 ボクをビターじゃなくて、【ボク】だと認めてくれたことが嬉しくて。
 どうやったらアンナを笑わせてあげれるのか、ボクは一生懸命考えた。

 ――ああ、ビターが戻ってくればいいんだ。

 ボクは、ぽんと太鼓を叩いた。










――ボクはビター。誰よりもビターの真似が上手なビター。




   #2



 海が敵だなんて、嘘っぱちだ。
 流れる風にボクは腕を広げた。
 水を裂く船が、波に揺れながら風をきって走る。
 陸はどんどん遠ざかって、ボクのいた街は山にしかみえない。
 斜面に沿って見える白いものは家だ。あのどこかに、ボクの家もある
 オトウサンは、ビターの事故があってからボクが海に出るのを凄く怒った。
 でも、【ボク】が【ビター】になろうと思ったら、船くらいは乗れなくちゃ。
 そう考えて、次の日早速、大人が乗ってる船に無理矢理乗せてもらった。
 初めてなのに、初めてじゃないみたい変な感じがする。
 次にどういう手順で、船を操作したら良いのか頭にどんどん思い浮かんで、その通りに船を操っていくオジさんをみて、簡単だなって思った。
 ボクなら、もっと上手く操ってみせる自信があった。
「なーんだ。これなら、ボクにだってやれるじゃんか。ねぇ、オジさん。少しだけ、ボクと交代してよ」
「――おいっ。ビターっ。お前、今喋ったか!? もう一回言ってみろ」
 オジさんが舵を片手に、ボクの痛いぐらいに掴む。
「え……アー、あ。本当だ。ボク、喋ってるっ。喋れるよっ!」
 変な音しか出なかった喉が、みんなと同じ言葉を話せるようになっていた。
「そうだよな。お前はビターだもんな。お前から、海を取ったら何も残らねぇ。良かったなぁ。良かった」
 オジさんがボクの肩を抱き寄せて、目を潤ませながら言った。
 言葉を思い出したら、後は網を引き揚げたみたいに、他の事も解ってきた。
 今まで手掴みだったご飯だって、箸を使って食べれる。
 でも、ビターの記憶だけは戻らなかった。
 オトウサンはボクがもう一度、船に乗ることを最初は反対していたものの、すぐに折れてくれた。
「いいか、島が見えなくなるほど遠くに出るんじゃないぞ。海には敵がいるんだから」
 何て、念は押されたけどね。
 ビターは船にのってこそビターなんだ、って。
 海に出ているうちに、記憶も戻るに違いないって。
 ボクは心の底からこの幸運に感謝した。
 これで一歩、アンナの笑顔に近けた。
 【ビター】が居ないせいで彼女も元気が無いのだから、【ビター】が戻ってきたら彼女もきっと元気になってくれる。
 ボクが一番、彼にそっくりなんだから。
 ボクが彼の真似をしたら良いんだ。
 そうしたら、いつもビターと間違えたときの眼差しが俯いたりしないで、ずっとボクを見てくれるかな。



 ボクはビター。事故から還ってきたビター。
 波を読み、船を操る。
 風と水しぶき、陸地が見る間に小さくなる。
 舵を切り、水の上を滑るようにして浮きをかわす。
 他の船は、ずっと後ろ。
 段々と大きくなっていく港から歓声があがった。

 ――ビター、ビター、ビター……彼が戻ってきた。

 声援がボクの耳に届いた。
 みんな、【ビター】が戻ってきたと信じきっていた。
 違うとバレないように、ボクは頑張った。
 みんなの言う【ビター】なら何を言うだろう、何をするだろう、どんな仕草で、どんな話し方で――全部手探りで、わからないときは事故の後遺症だと言って、そうやって会った事もない【ビター】になっていった。
 みんなが喜んでくれる反面、ボクは少し寂しかった。
 そりゃあ、ビターみたいに船を操れて、海に出るのも楽しいし、この身体は彼に良く似ているかもしれないけれど。
 ……ううん。もうわかってる。
 ボクはみんなの言っていた通り、本当に記憶を失ったビターなのだ。
 この身体が海を覚えていた。ボクもやっと自分の居た場所に戻ってきた気がする。
 それでも、ビターの記憶の無いボクにとって、彼の事は他人のようにしか感じられなかった。
 そう思うと、【ボク】の事を認めてくれたアンナが恋しくなった。
 彼女も街のみんなと同じように、ビターになっていくボクを褒めてくれて、ゆっくりで良いのよ、と優しく励ましてくれた。
 ボクは彼女のために【ビター】の真似をするって決めたけど、それって彼女を騙してることになるんじゃないかって気づいた。
 でも、今のままボクが【あなた(ボク)】に戻っても、アンナの中にいるビターの思い出に勝てない。
 ビターは本当に凄い人で、街で一番の船乗りだったから。
 だったら、彼が出たのと同じ大会で優勝したらどうだろう。
 それなら、ボクもビターと同じ、街で一番の船乗りだ。
 アンナの思い出の中にいるビターにも負けない。
 そうだ。優勝したら、アンナにだけは本当のことを伝えよう。
 ボクの気持ちと一緒に。

 ――優勝したい。




「アンナ。今晩、話したいことがあるんだ。店で待っててよ」
 ロープを引いて岸に船を繋ぐと、ボクは赤毛の女の子に声をかけた。
 街には沢山の観光客で賑わいでいたけど、彼女ほど見事な赤毛は他にいなかった。それに、彼女より可愛い子も見なかった。
 そんな彼女に一番に話し掛けれるボクが、少し特別な気がして誇らしかった。
 アンナは、まだボクが一番に街に戻ってきたことが信じられないのか、目を白黒させていた。
「ずっと前から、君に伝えたいことがあったんだ。二人きりで話がしたい」
 アンナは、ぎこちなく微笑んだ。










――まるい。まあるいお月様。全てを見ていたお月様。




   #3



 祭りの騒ぎも落ち着いてきた頃、ボクは店ののれんをくぐった。
 貝がぶつかって涼しげな音を立てる。
「ごめん、アンナ。なかなか抜けられなくて」
 首に掛かった花輪には、まだ祝い酒の匂いがしてくるようだった。
 柱だけで壁のない店内を見渡す、海の上には満月がぽっかりと浮かんでいた。
 彼女の姿を探しながら、彼女に伝えたい言葉を心の中で思い描く、ここに来るまで何度も何度も考えておいた言葉だ。
 絶対に言うって決めた、簡単な言葉なのにこうしているだけで、頭の中が真っ白になる。
 忘れたりしないように、何度も何度も胸の内で繰り返した。
「アンナ。寝ちゃった……?」
 呼びかけても、出てこない。
 ボクが着たとわかったら、きっと喜んで出迎えてくれると思ったのに。
 来るのが遅かったかな、そう思い始めた頃、奥で物の落ちる音がした。
 棚の上にあった木の玩具が、乾いた音をたてて床に散らばる。
 転がってきた玩具が、つま先にあたって倒れた。
 木の実を削って作ったお面だ。
 人が被るには小さすぎるそれは、この地方の子供が生まれた時から持ち歩いてるお守りの模造品である。
 本来、両親が願いを込めて作るお守りなのだから、こんな同じ模様で沢山あるようなものにそんなご利益はない。
 売れやすい模様をつけた、観光客向けの商品だ。
「助けて、助けてビター」
 アンナの悲鳴。
「どうした! 何があった!」
 そのただならぬ様子に、ボクは駆け寄り、周囲を伺った。
 物捕りでも現れたのだろうか。
 たいした物も、お金もほとんど置いてない店だからって無用心すぎたのかもしれない。
「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ……ごめんなさい。ビター、許して」
 アンナはボクの足にすがりつくようにして、懇願した。
 足の甲に暖かい雫がぽたぽたとかかる。
 アンナはボクに謝っていた。
 許して、許してと、同じ言葉を繰り返す彼女を見下ろした。
 あれだけ焦がれた彼女がこんな側にいるのに。
 ボクの心は嫌な予感でいっぱいだった。
 もしかして、アンナはボクの気持ちに気づいていたのだろうか。
 まだ、ボクの口からは何も伝えていないのに、終わってしまったのだろうか。
 月が陰るのと同じように、ボクの心にも暗い影を落とした。
 そんな不安を押し殺して、ボクは声をだした。
「アンナ。その、ボクは……」
「ビターが、海の人と行っちゃうって言うから、私、私、自分でも抑えきれなくて――」
 海の人……?
 まだボクの知らない単語があることに驚いた。
 アンナの耳に、ボクの声は届いていないみたいだった。
 彼女は【ビター】に対して怯えていて、何か許して欲しいことがあるらしい。
 そう言えば、【ボク】が目覚めてすぐにも、同じようにすがりつかれた気がする。
 でも、その時は確か、「生きていてくれて良かった」って――……あれ? おかしいな。
 アンナは、【ビター】に会いたかったんだよね?
 何か、決定的な間違いを犯している気がして、ボクは自分の記憶を探った。
 いつも哀しそうな彼女。
 ボクを、ビターでなくても良い。無理に思い出さなくても良いって言って微笑んでくれた彼女。
 ベットで目を覚ましたとき、記憶を失ったボクを泣いて喜んでくれた彼女。
 ビターと仲が良かったという彼女。
 ビターが居ないから、悲しんでいた彼女。
 ボクの記憶が戻ったと誰かが言えば、血相を変えて駆けつけてくれた彼女。

 ――ビターの記憶が戻ってしまうのを怖れていた彼女。


 ……あれ? あれれ?
 オカシイな。変な汗が出てきたよ。
 このままアンナの言葉を聞いてはいけない、そんな確信に近い予感がした。
 アンナのことが大好きな【ボク】は知りたくない事のような気がする。
 君の恐れているビターは居ない。ここにいるのは【ボク】だよって早く教えようと思うのに、喉は変な音を出すばかり。
 【ボク】が喋れなかったころみたいな、変な声。
 だから、アンナが言ってしまった。
「死んでしまったのだと思った。私、怖くなって――」
 『死』――不穏な単語に背筋が凍る。
 汗で湿った上着が気持ち悪い。
「アンナ、君は……」声が出た。
 ボクは、彼女の腕を掴もうと手を伸ばした。
「いやぁっ! 私、私――」
 ボクの手を払って、アンナは逃げ出した。
「待ってっ」
 手を伸ばす僕の前に、彼女の犬が立ちふさがる。
 主の様子がおかしいので、助けようと思ったのだろう。
 ボクは店の中を通って、別のところから外に出た。
 港ではなく、ビターの船がある桟橋の方にかけていく赤い髪が見えた。
 追いかけようと砂を蹴る。
 錯乱しているアンナを助けてやりたいのと、彼女が何を謝っているのか知りたかった。
 どうしてそんなに、【ビター】を怖れているのか。
 そもそも、どうしてビターは事故に会ったのだろう。
 彼は、前の満月の日に海に出たっきり戻らなかった。
 何か事故にあったんだろうか、って街の人たちは探した。
 その三日後に、嵐がビターの船を岸へと運んだ。
 その船に乗っていたのが【ボク】だ。
 海が好きで海からも愛されていたビターが事故を起こすだなんて、街の誰一人として考えなかった。
 それは、本当に事故だったのか……?
 本当は、事故なんて起こしていなかったとしたら?
 先ほど泣きながら告げたアンナの言葉を思い出す。

――『私、自分でも抑えきれなくて――。死んでしまったのだと思った、だから、怖くなって――』

 "殺してしまったと思った。だから、ビターを置いて逃げ出した"?

 それは何時……?
 もちろん、ビターが戻らなかったという前の満月の日だ。
 あの日、ビターはアンナと会っていた。
 そこで、何があった?
 彼女は【ボク】が何も覚えていないこと、ビターが生きていたことに喜んだ。
 ベッドにいたボクにすがり付いて、心の底から感謝していた。
 殺さずに済んだ上にボクが全部忘れていることを喜んだ。
 何度も、無理に思い出すことないって声をかけててくれたのは、ボクに記憶なんて思い出して欲しくなかったから。
 それを【ボク】は優しいのと、勘違いしていた?
 考えれば考えるほど、目頭が熱くなった。
 視界がにじむので、手の甲で目を擦った。
 ボクは、アンナはずっと淋しいのだと思っていた。
 仲良しのビターが戻ってきたら、笑ってくれるのだと思った。
 【ボク】は、アンナと仲良しなビターの場所が欲しかった。記憶が戻った嘘をついてでも、アンナに見て貰いたかった。
 どうして、彼女がボクの中のビターの影に怯えているのだと気づいてやれなかったのだろう。
 ボクが【ビター】のふりをしたから、こんなに彼女を追い詰めたんだ。
 それが悔しくて。もう一度、目を擦った。
 彼女は知らないだろう。
 見知らぬ他人の名前で呼ばれて、知っていて当り前のことがわからなくて、精一杯の答えを返しても哀れんだ顔に見つめられる辛さを。
 君が【ボク】を認めて受け入れてくれたことが、ボクにどれほどの救いになったのか。
 でも、アンナは違った。
 ボクが【ビター】の記憶を手にして報復に来ることをずっと恐れて、心をすり減らしていた。


 月が眩しかった。まあるいお月様だった。
 それは、ビターが事故にあった日と同じ空だろうか。
 あの月に聞いたら、全部教えてくれるのだろうか。
 逃げる少女の髪は、不思議と太陽の下で見るよりも赤くみえた。
 桟橋の淵まで来て、アンナは立ち止まる。
 もう逃げる場所は海しかない。
 振り返る彼女は、可哀相なくらい青ざめて震えていた。
 逞しくて、色んな人から一目置かれていたビターのフリをすることも忘れてボクは声をかけた。
「アンナ、ボクに許して欲しいって何? 君はビターに何をしたの?」
 ボクは、たぶん泣きそうな顔をしていたと思う。
 アンナは一度、不思議そうにボクの方を見た後、じっとボクの顔をみつめた。
 目を反らすこともできず、ボクはそわそわと指を動かした。
「……ビター。あなた、記憶が完全には戻って居ないのね?」
 完全どころか、これっぽっちも戻ってない。
 見透かすような彼女の視線に、ボクは自分の顔が強張るのを感じた。
 アンナは、一歩一歩と歩みよってきて、それこそ簡単に抱きしめれそうな距離で立ち止まった。
「海の人、って知ってる?」
 ボクは首を横に振った。
 アンナは満足そうに頷くと、
「私たちが陸で暮らしている人間――陸の人なら、海にも人が居るの。人とは名ばかりの魚よ。 彼らはね、陸の人が海に来るのを嫌っている。船の転覆事故のほとんどが彼らの仕業なの。 そういう事故のことを、私たちは【海の呪い】って呼んでるわ」
 海の呪い。みんなが、記憶喪失になったビターに向けて言っていた言葉だ。
 単なる例え話だと思っていた。
「あの日、私とビターは海に出ていたの。そこで、海の人に襲われた。ビターは、銛を持って戦ってくれたわ、でも――敵わなかった」
「許して、とボクに言ってたのはどうして?」
 アンナはしばし言い淀むと、僕から目をそらして、
「私、貴方を置いて逃げたの……」
 小さな声で呟いた。
 もう一度、さっきの推論を考え直す。

――『私、自分でも抑えきれなくて――。死んでしまったのだと思った、だから、怖くなって――』

 "海の人に襲われて、怖くてしかたなかったからビターを残して逃げてしまった"?

 ボクはほっと胸を撫で下ろした。
 それなら良かった。きっと【ビター】だって、アンナが逃げてくれて安心したと思う。
 だって、ボクが同じ状況になったら、そう思うから。
 ボクは、さっきまで考えていた変な考えを頭をふって追い出した。一体、何を畏れていたのだろう。
「そんなの、アンナのせいじゃないよ。君もボクも無事だったんだから、気にしないで良かったのに」
 言いながら、アンナの手をとる。
 怯えて冷たくなったその手を、お詫びに温めてあげたかった。
「でも、どうして海の人は陸の人を襲うの?」
「戦の恨み、だそうよ。この国では、祖父たちの代で多くの血が流れたらしいの。今でも、あまり沖の方に出るのは禁じられているでしょう?」
「……この国では?」
 何となく、アンナの説明の仕方に違和感を感じて、オウム返しに問う。
「ああ……そっか。【あなた】は知らないのよね。ねぇ、私の髪を見て変だなって思わなかった? 肌の色だって皆よりずっと薄いでしょう?」
「変だなんて。ボクは…――キレイだな、って…」
 ボクが手を放すと、アンナは両手でその緋色の髪を広げた。
 暗い月夜の下でも、その髪は栄えていた。
「ふふ、ありがとう。ビターもそう言ってくれたわ。私はね。海とは反対側、あの山の向こうからやってきたの。母さんと一緒に」
 そう言って、アンナの指差す先に目を向けると、星のない闇があった。
 丁度、星が途切れているところからが山が広がっているのだ。
「へぇ。そっか、あの山の向こうにも街があるんだ」
 この街とビターのことを覚えるのに必死で、山の向こうの事なんて考えた事もなかった。
「ふふ、ねぇ。山向こうのことが、気になる?」
 耳元で声がして、ボクはどきりとした。
 肩に触れてくる指が暖かかった。
「うん。どんなとこ?」
「だったら、行ってみない? こんな、海の人が襲ってくる街なんて捨てて、私と一緒に」
「アンナと一緒に……いけるの?」
「ええ。山の向こうには違う海が広がっているのよ。広い広い砂の海、【あなた】も海は好きでしょ?」
 ボクは黙って頷いた。
 山の向こう側にも海が広がっているのなら、みてみたい。
「船は持っていける?」
「お船は置いて行きましょう。お山を越えるのに、引っ張っていける?」
 ボクは首を横に振った。
 きっと、坂の道の途中、家につかないうちにへばってしまうだろう。
 家。そう、街を捨てるってことは家族も置いていくってことだ。
「でも、ボクが居ないと、オトウサンが独りになっちゃう……」
「……そうね。最初は寂しいかもしれない。でも、きっと喜んでくれるわ」
「どうして?」
「もう、【あなた】が【海の呪い】にかかる心配がなくなるんだもの」
 歓喜の声だった。
 肩越しに見る彼女の顔は、喜びに満ちていた。
「そう……かな?」
 笑顔に押されて、答える。
 悪い気はしなかった。
 アンナは、ボクが【ビター】の記憶がないと知っても受け入れてくれて、笑ってくれた。
 ボクが笑わせたんだ、と舞い上がっていた。
「ええ、そうよ。きっとそう。貴方が一緒に行ってくれるのなら、私は――」
 アンナが笑顔で励ましてくれる。
 ちょっと前まで、怯え、泣いてたのが嘘みたいだ。
 アンナに手をひかれて、桟橋を浜辺の方へと戻ろうとした。


「ウソツキ!!」
 渡りきらないうちに、背後――海の方から声がした。
 アンナは隣で手を繋いでいるし、さっきまで他に誰も居なかった。
 驚いて、振り返ったボクの目に映ったのは、海からあがろうとする女性の姿だった。
 真白い肌、青銀に輝く長い髪から滴がこぼれる。
 体のラインがわかるくらいにぴったりとした服も髪と同じ銀で、月明かりを受けては桃色にも見える不思議な服だった。
 町の人間とは、身にまとう雰囲気が違う。
 ただ彼女の手にしているお面には、見覚えがあった。
 少しくたびれているが、街の子供なら誰でももっているお守りで同じ物は一つとない。
 でも、見覚えはあるのに、そのお面が誰の物か思い出せなかった。
 アンナが僕の背中に隠れて叫んだ。
「ビター。あいつよ。あいつが、あなたに呪いをかけたの」
 海から上がってきた女の下半身を見て、ボクはぎょっとした。
 そこにはボクたちのような足の代わりに、魚の尾びれがついていた。










――陰った月が姿をみせる。ほうら眼を開いて見てご覧。そこに何が見えるかしら。




   #4



 アンナがボクの背中をぎゅっと掴む。
「気をつけてビター。人に見えてもあれは魚、あの足をみて。魚と一緒でしょう」
 背中にアンナを隠すようにして、ボクは精一杯に凄んでみせた。
「【海の人】が、何の用だ」
 教えてもらったばかりの言葉を使って、そう告げると、海の人はその細く長い眉をよせた。
「ビター……」
 愛しい人の名を呼ぶように、甘い声で海の人が呟く。
 その顔が泣いているように見えて、ボクは戸惑った。
 胸に優しくお面を抱いて悲しんでいる女の人にしか、見えなかった。
「騙されないでビター。あいつらは、ああやって人間を誘き寄せるの。人に見えたって、あれの中身は魚」
 アンナの注意に、ボクは揺らいだ心を繋ぎとめた。
 顔を見るから騙される。
 視線を、桟橋の木目に落とした。
 ほら、これで魚の尾しか目に入らない。
 海の人の足元に、コトリコトリと雫が落ちる。
 その音を聞いていると、胸が痛んだ。
「落し物を届に来たの……」
 海の人の手が、そっと桟橋にお面を置いた。
「これは、あなたのお守りだから……もう、無くさないようにして、ね?」
 消え入るような震える声は、水音と共にいなくなった。
 顔を上げると、海から打ち寄せる波の他、お面を残して海の人は姿を消していた。
 ただ、波の音だけが、あたりに響く。
「ビター。戻って来ないうちに行きましょう」
 アンナがボクの腕を引きながら言った。
 彼女がボクを頼ってくれることに喜びを覚えつつも、どこか釈然としない思いがあった。
 さっきの海の人が、悪いモノにみえなかった。
「うん……。ちょっと待って…」
 そう言って、そっとお面に近寄った。
 周りの海に人の気配はしない。
 つま先に丸い小石があたって、転がった。
 それは真っ白な真珠だった。
 海の人の居た周りには、沢山の真珠が転がっていた。
 もちろん、面の上にも乗っている。
 日に焼け、持ち歩くうちにすり減った塗料、水の中にいたせいで羽飾りは湿っている。
 初めて見るのに、それは毎朝鏡をのぞくように、毎日見ていたような気がする。
 ボクはお面に指を伸ばした。
「そんなモノが欲しいの? いいわ、ビター。新しいお面は私が作ってあげる。魚が触れたモノなんて、ほっときなさいよ」
 ボクの背中に声がかかる。
 アンナは、【ビター】が持っていたお面を知っている。
 それにどんな模様が刻まれていたのかも。
 そんな彼女が、新しいお面を作ると言った。

 ――これが、ビターのお面じゃない、とは言わなかった。

 自分の腰元に目をやると、お面のあった名残の千切れた紐が揺れていた。
 このお面は子供が生まれた時、元気に育つよう願いをこめて両親が作る。
 でも、ボクはボクのお面を持っていなかった。
 【ビター】にはお面があったのに。
 嵐の日に生まれた【ボク】には、誰も祝福してくれなかった。
「うん。欲しいよ」
 やっとわかった。
 ボクが欲しかったのは、アンナの瞳じゃない。
「【ボク】が生まれた事を喜んでくれた証が……ずっと、欲しかったよ」
 そっと、【ビター】のお面を拾い上げた。









――海に落とした忘れ物。それは大事な、あなたの人生。




   #5



 面は語る。ビターに何が起こったのかを。
 今まで供に過ごしてきた日々を、そして、最後に見た光景を。


 黄昏に染まる海、港街は遠く水平線に浮かんで見える。
 街で自慢の船乗りが乗るその船の甲板に、赤毛の娘が立っていた。
 そわそわと落ち着きなく、甲板や海に視線を落とす様は何かを待ち望んでいるようだった。
「アンナ。急に呼び出して悪い」
 ビターの声がした。姿は見えない。
 でも見慣れた手足が視界に入った。
 赤毛の娘が顔をあげた。
 あの海好きのビターが船を手放すなんて、信じられないというように。
 青い瞳が期待から不安に変わる。
 そんなアンナの様子に気付かず、ビターは言葉を続けた。
 どこか嬉しそうな弾んだ声で。
「本当は黙っていようと思ったけど、アンナにだけは本当の事を話しておきたくてさ」
 娘は、自分だけだと言われて顔をゆるめた。
 期待と喜びに満ちた眼差し、その頬が赤いのは夕焼けのせいばかりでもなさそうだった。
 しかし、続くビターの言葉は、彼女の望むものではなかった。
「だって、一番の親友だろ」
 アンナの顔が強張るのも気づかないで、ビターは打ち明ける。
「今晩、スィートの所に行くって決めたんだ。他の【海の人】たちも、ビターなら良いよって。知ってる? 僕たちでも海の中で呼吸する方法があるんだってさ。それに、水中の都は、それは綺麗で、珊瑚に魚に――」
 一瞬、潮の音が止んだ。
「…行かせない」
 小さくかすれた声で、少女が呟く。
 突風が、視界を煽った。
 ビターの手が船の縁を掴んだ。
「アンナ、大丈夫かっ」
 娘の方を向いて、ビターの息を飲む気配がした。
 風は娘から吹いていた。
 いくら夕暮れだからといっても、その髪は赤すぎる。まるで燃える炎のようだ。

 ――『魔女』の二文字が、ボクの脳裏によぎった。

 アンナは元々、この街の出身ではない。
 彼女は母親と過酷な砂漠を越え、山を越えてこの街までやってきた。
 砂漠の方では、罪人や魔女を流刑に処すことがあるという。
 処された者の多くは砂の海に飲まれ、命を落とす。
 母親は娘を守ろうと無理をしていた気が緩んだせいか、着いて早々に亡くなってしまった。
 残った娘は最初、頑なに心を開かなかった。
『この赤毛が魔女の証拠かって、言うんでしょ! 貴方も、貴方もっ』
『そんなことない。キレイな髪だよ。お日様みたいだ』
 それから、だと思う。アンナが落ち着いて、朗らかな笑みを浮かべるようになったのは。
 伝えに聞く魔女なら、砂漠を越えたくらいで死なない。
 "魔女の濡れ衣を着せられ"、親も家もなくした可哀相な娘をこの街は受け入れた。

 ――その娘は、無事に砂漠を越えてきたことも忘れて。

 ぽろぽろと涙を溢れさせて、赤毛の魔女は訴える。
「ビター、ビター。私のビター。私、だけの。人魚なんかにたぶらかされて」
 ビターがうわずった声で反論した。
「スィートはそんな子じゃない。きみだって、誉めていたじゃないか。『海の人って怖いと思っていたけど、違ったね』って」
「わからない? ビター。生きのいい魚には、誰だって誉めるでしょ」
 縁に掴んでないと立っていられないほどの強風の中、赤い髪の魔女が笑った。
 【ボク】は、アンナの豹変に愕然としていた。
 そんなボクの頭に、忘れていた知識が戻ってくる。
 海の人たちを魚と呼ぶのは彼らを差別するときの言い方だ。
 そう言って、【陸の人】は彼らを傷つけてきた。彼らの涙が、他の国では宝石として売れると知ってからは、尚更に。
「海の人たちは魚じゃないっ。住む所が違うだけで同じ人なんだっ」
「あら、人の足にひれなんてついてる? 涙の雫も零せない、あのぬめった皮膚の何処が同じだっていうの」
 心底不快だとばかりに、アンナは右手の掌を反対の手で拭う。
 スィートと握手を交わしたのは、もう、何ヶ月も前の話だというのに。
「あんな魚。さっさと釜戸にくべてしまえばよかった」
 本気の目だった。
 アンナから吹き出る風と言葉が、鋭いナイフのようにボクの心を抉る。
 目の前に居るのは砂漠を越えてきた魔女で、一緒に笑いあってきた親友は居なくなってしまったという、ビターの嘆きが伝わってくる。
 ビターは腕を伸ばし、銛(もり)を掴む。
「スィートに何かしたら、いくらきみでも……」
 アンナはビターの手元をみて身をすくめた。
「ビター、突くのっ!? このあたしを!? 魚みたいにっ!」
「…ああ。やるかもな」
 ビターが苦しそうに告げる。
 今になってようやく、アンナの想いに気が付いた。
 そして、彼女の正体にも。
 アンナはビターが本気だとわかったのか、目を見開いて後ずさった。
「いけないわ、ビター。陸の人(こちら)に帰ってきて、あんな魚のことは忘れてっ!!」
 ひときわ強い光に、ビターは目を瞑った。
 紐の千切れる音が、ボクのすぐ側で聞こえた。


 面はくるくると回りながら、海と空が何度も天地をいれかえる中、ただ見ていた。
 倒れているビターを赤毛の娘が揺さぶっていた。
「ああ、ビター。許して、そんなつもりじゃなかったのよ」
 しかし、ビターは指の一本も動かさなかった。
 アンナはビターをそのままにして、船の舵を握った。
 舳先を――港とは反対がわの断崖へと向け、走り出す様を、面はただ見ていた。




 飛沫(しぶき)があがる。
 深い深い海の底。何処まで沈んだか、一体いつまで沈んでいくのか判断つかなくなってくる頃、青い世界の中で真っ白い貝が泣いていた。

    ビター、ビター、ビター……。

 愛しい人の名を呼ぶように、嗚咽交じりに貝が泣いていた。近づくにつれて、それは、人ひとり余裕で入れそうなほどに大きいのだとわかる。

    どうして来てくれなかったの。
    私、待っていたのに…。

 魚の尾を持つ人が貝を訪ねて、慰めては去っていく。
 中には、彼女をこんな事にしたビターの悪口を言う者もいた。
 貝の中では、涙の雫が固まって、中の人の嗚咽に合わせて、音をたてた。
 それは、彼女が泣けば泣くほど音は大きくなった。
 その声を聞くたびに、【ボク】の胸が締め付けられた。
 ボクは貝の中にいる彼女に伝えようと、声を振り絞る。
(ビターは行くつもりだった、でも行けなかったんだ)
 けれど、口も喉も固く開きそうになかった。
 水中に音が反響して、地上の声を届けてくる。
『アンナ。今晩、話したいことがあるんだ。店で待っててよ。』
『ずっと前から、君に伝えたいことがあったんだ。二人きりで話がしたい』
 それは、【ボク】の声だった。
 優勝して舞い上がっていた、ボクの声だ。
 その声は貝の中にも届いてらしく、彼女が答える。

    もう、逢えないの?
    やっぱり、海と陸は分かれて無くてはならないの?

 諦めに似た、疲れた声だった。
 ずっと、ずっとそこで泣き明かして、何も口にしていなかったから。


 【僕】はありったけの力を振り絞って、叫んだ。
(違うんだ、スィート。僕はここに居る。だから、僕を上まで連れて行ってくれ。絶対に、君を思い出すから。思い出して見せるから)
 だから。


「……ビター……? そこに、いるの?」
 貝の中から声がした。








――これは、人と魔女と人魚のお話し。




   #6



 僕はお面を拾いあげると、ゆっくりと立ち上がった。
 面に乗っていた真珠が転がり、水面に落ちた。
 沈んでいく真珠は、彼女の涙。
 彼女がどんな想いでこれを置いていったかと思うと、忘れていたとはいえ、何て言葉をかけてしまったのか思い出すと、僕は苦みに似た気持ちになった。
「アンナ。"僕たち"は君が……――」
 振り返る。
 赤毛の娘は、桟橋を渡り終えて、明かりのともる街並みに向かって歩きだしていた。
 僕と一緒に砂漠の海を旅する夢を信じて、疑っていないようだった。
 面は見ていた。
 僕の背中に隠れているアンナの、嘲りの笑みその全てを。
「好きだったよ」


 ――――――。


「え? なに? 今、波がうるさくて――」
 潮風になびく髪をおさえて、少女は振り返る。
 誰も居なかった。
 ただ、打ち寄せる波に揺れる船と丸い満月が昇っているだけで。
 少女の他に、誰も居なかった。











    おかえりなさい。ビター。
















――陸の人と、砂漠の魔女と、海の人の物語。




   #0



 蒼い海が広がっていた。
 輝く波間の間に船が浮かんでいる。
 海へと向かう急な坂道の両脇には真っ白な土塀が並び、四角い家の間を山から下る水路が張り巡らされていた。
 その坂道を小麦色の肌をした少年が駆け下る。
 少年の腰のベルトに結んだ小さいお面が、足の動きに合わせて上下に踊った。
 箒を手にした女が、少年に声をかけた。
「おはよう、ビター。今日も早いねぇ」
「おはよう、おばさん」
 ビターは愛想よく答えて、手をあげた。
 そうやって、すれ違う誰もが少年に声をかけていく。

 ――ビター、ビター、ビター。

 ビターはこの街一番の船乗りだ。彼以上に海に愛されている者は居なかった。
 普段は漁に出るか、親から任された観光客目当ての小さい店で働いていたので、大人からも好かれていた。
 少年は裏道に入ると、水路を横断する狭い板の上を慣れた足取りで渡り始めた。
 遠くにある立派な橋を使うより、こっちの方が早く海に出られるからなのと、もう一つ、この道でないと姿を見せない友達がいるからだ。
 水路の真ん中辺りに差し掛かったところで、ビターは足を止めた。
「おはよう」
 川に向けてビターが声をかけると、足元から水音に混ざって挨拶が返ってきた。
「おはよう、ビター。スィートが待っているわ。行ってあげて」
 ビターの足元、透き通った水の中を尾びれのついた人が泳いでいた。海の人たちだ。
 陽射しを蒼く照り返す肌、水中で彼らは苦しげな素振りもみせず、少年に向けて笑みを浮かべた。
「すぐ行く、そう彼女に伝えといて」
 ビターが答えると、海の人は頷いてすぐに水に溶けて消えた。
 海の人たちは、あまり陸には来たがらない。
 祖父の代で陸の人と海の人とで争いがあって以来、お互い疎遠になったのだという。
 しかし、ビターだけは違った。
 彼は陸からも海からも好かれていた。
 断たれた両者の関係を結ぶなら、彼しか居ないだろうと、和解するタイミングを待っていた人達は噂した。
 海に近づき、道がなだらかになるにつれ、辺りにヤシの木が増え、木の柱と葉っぱの屋根で作った簡単な住居が目立つようになってくる。
 ビターは一番海に近い、砂浜の側に建つ店を目指して駆けた。

 屋根から吊るしてある鈴が、海風に吹かれる度にカラコロと心地いい音を立てる。
 丁度、赤毛の少女が背伸びをして、店の入り口にのれんをかけているところだった。
「アンナ。今日は休みにして、海に行くよ」
 そう言いながらビターは、少女の背後から腕を伸ばすと、かけたばかりののれんを外した。
「ちょ、ちょっとビター」
「ガキどもが来ると、アンナだけってわけには行かなくなるだろう。ほら、早く」
 アンナの不平も聞かずに、ビターは桟橋の方へと手を引いた。そっちに彼の船があるのだ。
「もう、しょうがないなぁ」と、アンナは口の端を引いて笑った。


 陸から遠ざかるにつれて、赤毛の少女は不安にかられた。
「ビター、何処まで行くの? こっちは暗礁が多いから危ないって……」
 操舵室の入り口の壁に手を置いて、アンナは聞いた。
 ビターは舵に手を置いたまま、少女の方に顔を向けると軽くいった。
「平気だって、呼んでくるからちょっと持ってて」
 そう言って、アンナの手に舵を握らせる。
 少女はこれまでビターに連れまわされたおかげで、多少は船を扱えるようになっていた。
「え、あ、ちょっと呼んでくるって――っ!?」
「すぐ戻るからっ」
 続けてビターは上着をアンナに投げ渡すと軽く助走をつけただけで、ビターの足が船を蹴った。
 水しぶきが上がる。
 咄嗟に目を瞑ったアンナが次に目を開けたとき、少年の姿は何処にも無かった。
「ほーんと、ビターってば海バカなんだから」
 待ちながら、アンナは笑った。
「アタシに見せたいものがあるから、連れて来たのよね? まさか、泳いでる間、船をみてて欲しいだけだったら、とっちめてやるんだから」
 そう言う少女は、本当に嬉しそうだった。
「おーい、アンナーっ」
 程なくして、少年の声が聞こえた。
 アンナは操舵室から顔を出して、声の聞こえた方を見て驚いた。
 ビターの隣をミルクのように白い肌の娘が顔を出していた。
 娘の長い髪は日の光を受けて、黒にも銀にも輝いて見えた。
 こんな色の白い女は、町では見たことが無い。
 二人が船に近づくにつれ、アンナはある事に気がついて、もっと驚いた。
 女に足は無く、代わりに大きな尾びれが一本生えている。
「海の人!?」
 陸の人間とは違って、海にも人が住んでいることをアンナは知っていた。
 ビターが彼らとも親しくしているのも聞いていた。
 でも、こうやって実物を間近で見るのは初めてだ。
(なんて、綺麗なんだろう)
 そう、アンナは思った。
「この娘(こ)、スィートって言うんだ。アンナなら、いい友達になると思ってさ」
 そう言って、ビターは屈託の無い笑みを見せた。



...END

 

文章は2007年、絵はアンナの他は2005年製。
当時にスィートを描いて下さったたまさんも巻き込んで、その古さに瀕死。






≪おまけ/2007.09.01≫

記憶喪失の頃の方が素直で良かったと熱弁するアンナ。
ついでに、色々ビターの恥ずかしい話でも聞きたがってるスィート。
最終的にビターの女心のわからなさについて、大盛り上がりの二人。

と、

女性陣の盛り上がりっぷりに、止めるタイミングを見失ったビター。


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