狂犬セリカ

2006年 冬 作:酉(とり)


1/犬のお散歩


   笑ってますか? アナタとワタシ
   笑えてますか? アナタとワタシ

   残った写真は、笑っているのに。
   電話がひとつ。それでおしまい。


 テラスの手すりに腰掛けて、狂犬セリカはお日様に歌う。
 栗色の髪を日に透かし。
 何処かで聞いたこの歌を。
 何処かで聞いたメロディに載せて。
 それは、人の作ったモノだから。

 狂犬セリカは今日も歌う。
 遠吠えのできない喉で。
 毛の無い肌に制服の袖を通して、細く長い指で鞄を掴む。
 黒い瞳は、机の上の時間割を映して。
 ひとつ頷いて、外に出る。


   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ


 自転車を横目に、セリカは走る。
 街をじぐざぐ、好きな景色の好きな匂いをかぎながら。
 小さな声で、口ずさむ。


   セミが鳴くよ 夏のセミよ
   湿気と日差しが 緑を照らすよ
   子供が笑って走ってく
   学帽押さえて走ってく

   それは、過去をひきつれて
   青空いっぱいの入道雲と一緒に


 紺色の制服の並ぶ端、鼻歌交じりにセリカは歌う。
 青になったら後少し。
 ハッピーエンドは、すぐそこに。


   子供の声が遠ざかり

   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ


   それと、最後に、背広姿ではにかむアナタ



 狂犬セリカの歌はおしまい。
 朝の散歩はこれで、おわり。




 2/ネズミの願い


   ネズミはお話を聞きました。
   それは、人になった犬の女の子のお話。

   たくさん、人のために働いてきて。
   そのごほうびに学校に通えるようになった女の子。
   狂犬セリカのお話を。


「マウ。できるわね?」
「うん。できるよ、母さん」
 スピーカーから聞こえる声に、僕は厚いガラスに頷き答えた。
 ゆっくりと正面のシャッターがあがる。
 そいつの唸り声に全身の毛が逆立った。


   狂犬セリカは人になった。
   今も何処かで笑ってる。
   僕もいつかは人になる。

   母さんと同じ、人間に。


 ネズミは腕の怪我を舐めながら、ガラスの向こうの空を見上げた。
 木々の合間に、白い月が浮かんでいる。


   狂犬セリカは人になれた。
   ライバル全て、退けて。
   今も何処かで笑ってる。


 初めてみた母さんは、僕よりずっと小さかった。
「マウ、しっかりやるのよ」
 制服のネクタイを結んでくれる母さんは、色んな動物の匂いをさせていた。
 犬にネズミに、あ、嫌だな猫もいる。
「母さん。これが終わったら……」
「ええ、一緒に暮らしましょう。でも、マウがちゃんとやれたらね」
「うん」
 それが、母さんの口から聞けたら満足だった。



   けれど、人になれるのは一匹だけ。
   今は狂犬セリカひとりだけ。




  +―+―+―+



 教室には四十一個の机があって、四十三個の椅子があって、四十人が座っていた。
 何処を嗅いでも人の匂い。
 たった一人を除いては。
「じゃあ、藤野さんの隣に座ってくれるかな?」
「はい」
 僕を値踏みして、ざわつく中、窓際の席に向かった。
 栗色の髪の少女が、大きな黒い瞳で僕を見上げる。
 唯一、この部屋で犬の匂いをさせる女の子。

「初めまして。藤野……セリカさん」




3/生物兵器


 ――寂しいね。

 澄み渡る青空の下、彼女は静かに笑みを浮かべた。
 それは、どこか物憂げで。
 ネズミは、人になれた犬がどうして哀しそうにしているのかわからなかった。

 本当にわからなかった。



 +――+――+



 犬の鼻なら、ネズミの匂いに気づいたはずだ。
 なのに、彼女はそ知らぬふりを続けた。
 きちんと彼女と話すことができたのは、昼休みになってからだった。


 学校で一番空に近い場所に、少年と少女は居た。
 空が広かった。
 昼寝にはもってこいの場所と天気だった。
「あなたも、人になりたいの?」
 セリカの言葉に、マウは少し安心した。
 あの狂犬セリカの噂からは信じられないほど彼女は普通だったから、別人じゃないかと心配していた。
 マウは頷き、答えた。
「それが、母さんの望みだから」
 少女はほんの少し躊躇ってから、
「そっか……。寂しいね」
 そう、呟いた。



   笑ってますか? アナタとワタシ
   笑えてますか? アナタとワタシ

   残った写真は、笑っているのに。
   電話がひとつ。それでおしまい。


 ネズミは、声を聞いた。
 それは、犬の口から聞こえる歌だ。
 それは狂犬セリカ――ディアボロスの余裕の現れ。
「ふざけるなっ!」
 互いに黒塗りの牙が交差する。
 使い込まれた犬の刃、真新しいネズミの刃。



   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ

   セミが鳴くよ 夏のセミよ
   湿気と日差しが 緑を照らすよ
   子供が笑って走ってく
   学帽押さえて走ってく



 ネズミの息は上がっているのに、犬の歌は途切れない。
 その髪は切れて舞っても、狂犬セリカ(ディアボロス)は本気を見せていなかった。
 現に、今だにネズミと同じ武器を使っている。
 犬の牙は見せていない。
 それが、ネズミを余計に焦らせた。



   それは、過去をひきつれて
   青空いっぱいの入道雲と一緒に


   子供の声が遠ざかり

   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ



 狂犬の歌が耳をかすめる。
 踵を返すより、フェンスに突き飛ばされた。
 刃を持つ手をねじられ、首に冷たいものがあてられる。
 ネズミは強く目を瞑って、次の一閃備えた。
 耳元で犬の声が聞こえた。


   それと、最後に、背広姿ではにかむアナタ


 犬の歌が止んだ。
 けれど、想像していたような一瞬はこなかった。
 ネズミは恐る恐る目を開けた。
 鼻先には格子、その向こうに空が見えた。
 透けるような青空だった。
「綺麗だと思わない? あそこじゃ、見られない空だよ」
 犬の言葉に、ネズミは歯を食いしばるだけで答えない。
 犬はネズミの手から刃を奪うと、彼を解放した。
「本当にこんなやり方で人になれると思っているなら、何度でもかかっておいで」
 そう言って、セリカは少年に背を向けた。
 校舎に入ったとき、後ろでフェンスが音を立てた。
 マウが叩くか何かしたのだろう。



 +――+――+



 それから、ネズミは幾度となく犬を付けねらった。
 教室では大人しい。この学校は、ネズミが人になったら通う場所でもあるからだ。
 朝夕構わず、ネズミは犬を追いかけた。
 そして、その度に軽くあしらわれた。
 ネズミの喉元に黒い刃をあてて、彼女は言うのだ。
《綺麗だと思わない?》
 それが、狂犬セリカの口癖だった。
「誰が、悪魔(ディアボロス)を綺麗なんて思うもんか」
 暗い夜道、街頭の下でマウは毒づくと、いつもの様に母に連絡を取ろうとした。
 短縮ダイヤルを回して、携帯を耳にあてる。
 通じない。
 もう一度、ダイヤルし直す。
 やっぱり通じない。
 仕方なく、自分で番号を打ちまでしたのに、結果は変わらなかった。
 首をかしげて、きっとまた実験で泊まり込んだのか、もう寝てしまったのだ。
 そう、思いついた。


   狂犬セリカは人になった。
   今も何処かで笑ってる。
   僕もいつかは人になる。

   母さんと同じ、人間に。


 翌朝、電話のベルにマウは飛び起きた。
 慌てて、携帯を取り落としそうになりながら、通話ボタンを押す。
「母さん!」
 電話の向こうから聞こえた声は、低い男性のものだった。
 マウは肩を落とすとぶっきらぼうに、
「なぁに、用ならさっさと言ってくれない?」
 良く見れば、窓の外はまだ薄暗い。
 マウは携帯を脇において、ベットに寝転んだ。
 別に、声を聞くだけなら耳元に置かなくたって同じだ。

 ――――。

 マウはもう一度飛び起きると、携帯を掴んだ。
「良く聞こえなかった。もう一回」
 嘘だった。聞きたくない言葉だから、聞き違いだと思いたいのだ。


 母さんが。僕を置いてよそに逃げ出した、なんて。





4/悪魔の冠



 細い糸のような雨が街を覆い隠した。
 遠くの建物とネオンの明かりがにじむ。
 朝の通勤、通学で混雑していた道も、今は雨音だけが響いていた。
 ウインドブレーカーの帽子を目深に被り直すと、マウは歩き出した。
 空を見上げた時に入り込んだ雨が、頬を流れる。
 こんな天気でも、公園のベンチに腰掛けている少女がいた。
 肩に添える傘で顔は見えない。
 紺に赤いチェックのスカート、手元には古典の教科書を開いていた。
 何処を読んでいるのか、マウには検討がついた。
 今度、暗唱のテストがあるのだ。
 彼女はマウが近づくと本を閉じ、膝に乗せた横長の鞄にしまった。
 藤野セリカは、鞄を肩に通すと立ち上がった。
「マウ。行けますか?」
 流麗だが、どこか事務的な口調で少女は告げる。
「……行ける」
 少年は小さく、吐くように呟く。


 ――母さんは、他の兄弟を選んで僕を置いていった。


 噛みしめた奥歯が軋む。
(母さんは初めから、僕が狂犬セリカを倒すことなど期待していなかった)
 ネズミを使って、適当に仕事しているフリができればそれで良かったのだろう。
 悲しくて悔しくて、胸が裂けそうだった。
 それでも何処か、心の奥では信じきれない――諦めきれない自分がいた。


 もう一度会うことができれば、自分に微笑みかけてくれるのではないかと。
 そんな夢さえ、抱いていた。




 +――+――+


 厚い雲がたれこめる。雨はいっそう激しさを増していた。
 道を流れる水は川のよう。
 水を蹴散らしながら、彼らは駆けていた。
 初めに二人、後からもう二人。
 後ろを気にしながら、マウはずっと先を走る少女に声をかけた。
「セリカ! 向こうにも犬がいる」
 セリカは、傘も鞄も持っていなかった。ロッカーに置いてきたのだ。
 特別な靴を履くでもなく、彼女は速かった。


 狂犬セリカ。
 仲間全員を食い殺して残った最後の一頭。
 そうして手に入れたのが、藤野という名前と悪魔(ディアボロス)の渾名。
 数々の任務をこなし、精神面も文句ない僕らの完成形。

 唯一、人になれた僕らの《兄弟》。
 僕らの憧れ、目指す者。

 そして、母さんが倒せと言った犬。


 セリカが徐々に速度を落とし、少年の隣に並ぶ。
 水を含んだ前髪が、額に張り付いていた。
「犬は私が相手する」
「かあさ……逃げた人は? 近くにいないの?」
 少女は首を振ると、もしかすると側に居るかも知れない。
 けれど、この雨が邪魔なのだ、と少年に告げた。
「どちらにせよ、外に逃げた《兄弟》を放ってはおけない。向こうから来てくれるのなら、先に」
 そう言って、セリカは暗雲を睨み、身を屈める。
 飛沫が跳ねた。
 身軽な身体が弧を描く、電柱を蹴ってさらに高く遠くへと。
 それはすぐに、滝のような雨に消えた。
 だが、セリカの後を黒い影が別の方向から飛んでいったように見えた。
 あの速さなら、セリカにも追いつく。
 そんな気がした。


 塀を挟んだ向こうの河では、水が轟々と音を立てて流れていた。
 マウは、フードを降ろすと振り返った。
 雨はまだ降り続いている、がここには雨がこない。
 頭上を、断続的な揺れと雨に負けない轟音が通過していった。
 電車だ。
 マウは匂いをかいで、嫌そうに顔を歪めた。
 猫の匂いだ。
 透明なレインコートを羽織った女の子が、雨を割って高架下に現れた。
 長い黒髪に白い肌、その爛々と輝く瞳は翡翠。
 八重歯を見せて子供は、耳につく高い声を出した。
「ねぇねぇ。もう逃げないの? ここでするの? もういいの? いいよ、キャムは何処だって。獲物(ネズミ)に選ばせてあげる」
 そう言って、子供は濡れた黒髪を指で丁寧にしごく。
 濡れているのが嫌なのだ。
「子猫の癖に!」
 そう言って、マウは黒塗りのナイフを抜いた。



 +――+――+



 広い芝生を舗装されたトラックや、白線が横断していた。
 近くにある建物には明りはなく、広いグラウンドに人の気配はなかった。
 居るのは、人に良く似た犬が二頭。
 雨に隠されて、グラウンドから建物や辺りに人の姿は見えなかった。
 同様に、外からもグラウンドの様子は見えない。
 セリカは、自分の眼前に立つ者を見据えた。

 ジャケットの襟や裾からは絶え間なく水が滴り落ち。
 頭をかぶりふると、短い栗色の髪からあたりに水が飛んだ。
 それはすぐに水に濡れ、白い肌に張り付く。
「初めまして、姉さん」
 青年は上着のポケットに手をいれたまま、セリカに声をかける。
「どんなに成果を上げても、人になれるのは一匹だけ。貴女がいると、僕らは人になれない。だから、証明しよう? どちらが、人になるに相応しいか」
 雨と草と犬の匂い。
 セリカは弟に問う。
「これで、人になれると本当に思ってる?」
 青年は目を瞬いたあと、姉の言葉をせせら笑った。
「だって、現に貴女は人になったじゃないか。同期の《兄弟》全てその手にかけて。《藤野》という名前を貰ってさあ」


 +――+――+




 子猫が高い声をあげて転ぶ。
 チャンスだと思って繰り出した刃を、マウは止めた。
 震える小さな胸の前で止まった切っ先から、翡翠の眼がゆっくりと見上げた。
 マウは怒鳴った。
「何で、母さんは猫(おまえ)なんかを選んだんだ」
 子猫は萎縮し、怯えるばかりでマウの質問には答えなかった。
 何もしらないのだ。――自分と同じに。
(こいつじゃだめだ、犬を探そう……)
 橋の外は、依然、雨が降り続いていた。
 塀の向こうでは、水が轟々と音をたてて、雨の酷さを物語っていた。
「……もう、わかったろ。邪魔、するなよ」
 マウは刃をひくと、犬の匂いを探そうと立ち上がった。
 子猫が高架下から動かないのを確認して、マウは雨の中を走り出した。
 辺りを見渡しても、犬の匂いも姿もみえない。
 澱んだ雲はいつまでも滝のような雨を降らし、建物がネズミの視界を遮った。
 少しでも高い場所に行こうと、河を遮る塀の上に立った。
 人、ひとりが歩くので精一杯。学校の机くらいの幅しかなかったが、ネズミには十分な幅だった。
 額に手をあてて、少しでも遠くをみようと目を凝らしながら、マウは歩を進めた。
 その足が、水にとられた。
 最初、足が滑ったのかと思った。
 けれどのしかかる重みと、肩に食い込む爪が違うとマウに伝えた。
 首にかかる生臭い息と猫の匂い。
 口の中に広がる、錆びた鉄の味。
 首をまげると、肩を押さえつける黒い毛に覆われた手がみえた。
 大人の人の手くらいはある、それでもこれは子猫の手だ。
 化け猫の手だ。
「ネズミって、やっぱりバーカ。キャムが元の姿に戻らなかったのは、ハンデだって、わからないの?」
 人ではない別のモノの喉から、無理して出す声は不安定に音程が揺れた。
「どうして母様がキャムを選んだか教えてあげる。あのね、アンタが弱っちぃから。ネズミの姿にもなれないネズミだなんて、信じらんない」
 コンクリートに手をついて、マウは言った。
「……おまえさ。窮鼠(きゅうそ)猫を噛むってことわざ、知ってる?」
「あは、なに言ってんの。猫(キャム)が今から噛むんだよ。ネズミが動かなくなるまで、ずっと離さないから」
 そう言って、化け猫は含み笑いを洩らした。
「なら、離すなよ――」
 マウは地面に手をついたまま、塀を蹴った。
 倒立の要領で、さらに片腕を前に出し身体をひねる。
 上着と一緒に、背中の上の猫が浮いた。
 ついた掌のすぐ先には、茶色い水を湛える河が広がっていた。
 マウは、猫を押し出す反動を使って、足を戻して身を丸める。
 猫は捕まろうとマウの肩に爪をたてた。
 それでも勢いは止まらず、マウごと外へとひっぱった。
 マウは顔を起こして、自由になった手で肩に食い込む猫の手を掴むと無理やり引き剥がした。
 河の方へと投げようとするマウの腕を、猫は上下逆さまになりながらも掴もうとした。
 けれど、手に残った上着が猫の手に絡む。
 マウの眼前を、中身のないウィンドブレーカーを手繰り寄せる黒猫が落ちていった。
 飛沫も叫びも、全て濁流に飲まれた。
 波間に見え隠れする猫の手や顔をみながら、
「ばーか。人はそんな動物の姿になったりしないんだよ」
 ネズミは言った。

 痛む肩を押さえて見上げる空はネズミ色、雨は少し弱くなっていた。
「セリカを探さないと……」
 そうして、ただセリカが向かった方向に駆け出した。









 水に濡れた芝生の上を、二本足と四本足が滑る。
 藤野セリカは、人の姿でもう一度聞いた。
「本当に、こんなやり方で人になれると思ってる?」
 栗毛の犬は吼える。
「ああ、そうだ。より強い人間を残すための試練だ。人には、”私たちのような強い人間”が必要だ」
 犬の姿でありながら、その言葉は自信に満ちた眼と声を備えていた。
「そっか、信じてるんだ。――昔の、私みたいに」
 狂犬セリカは、弟に哀れみの目を向けた。
 それは、どこか物憂げで。
 栗色の犬は、いつかのネズミと同じように戸惑った。
「本当に、私が人間になれたと思ってた?」
 狂犬セリカ(ディアボロス)は、悲しそうに告げた。





   笑ってますか? アナタとワタシ
   笑えてますか? アナタとワタシ

   残った写真は、笑っているのに。
   電話がひとつ。それでおしまい。


 ネズミは細く流れる犬の歌を聞いた。
(何をそんなに気に入っているのか、今は紅葉もなければ入道雲もないのに、彼女はいつも歌っている。……何処が良いのだろう)
 ネズミは、今まで歌詞について考えたことがなかった。
 歌を辿りながら、耳を傾ける。
(振られた女の見た幻の歌じゃないか)


   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ



 歌声を誘われるように、マウはフェンスを乗り越えた。
 何処かのグラウンドだった。
 灰色の雲が空を覆い、広いグラウンドに影が二つ。
 異形の影が二つ。
 雨はあがっていた。
 平伏し、憎々しげに吼え続ける栗色の毛の犬。
 マウは、最初、それがセリカだと思った。
 狂犬セリカが負けたのかと思った。
 加勢に行こうと思うのに、ネズミの足は動かなかった。
 犬の側に佇む者は、人でも犬でもなかったから。
 それは、ただ命を奪うだけの生き物。
 その身の模様は、闇に燻る炎のよう。
 猫を前にしたとき以上の恐怖が、マウの胸にわいた。
「……悪魔(ディアボロス)」
 自然とソレを言い当てる言葉が口をついて出た。
 犬は吼えつづける。
 異形は犬に気を取られているのか、ネズミの方を見向きもしなかった。
 マウは頭を振った。
(アイツが、母さんの居所を知ってるんだ)
 マウは彼らの元に駆け出した。
   セミが鳴くよ 夏のセミよ
   湿気と日差しが 緑を照らすよ

   子供が笑って走ってく
   学帽押さえて走ってく

   それは、過去をひきつれて
   青空いっぱいの入道雲と一緒に


 犬の鳴き声と歌声が重なって、マウの耳に届いた。
 歌いながら吼えることができるだろうか。
(違う。歌っているのは、――)
 マウは、急ぐ必要がないことに気づいて、速度を緩めた。


   子供の声が遠ざかり

   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ


 あの青空の下と同じように、悪魔(ディアボロス)は歌う。
 何処かで聞いたこの歌を。
 何処かで聞いたメロディに載せて。
 それは、人の作ったモノだから。
 それは、幸せな終わりの歌だから。


   それと、最後に、背広姿ではにかむアナタ


 歌い終え、立っているのは雨に濡れた学生が一人。
 藤野セリカ、一人きり。
「認めない。《藤野》が人間でないのなら、今まで何のために!」
 栗毛の犬が男の声を発した。
 何度も、認めない、認めるものかと、吼えちらした。
(セリカが、人間じゃない――?)
 ネズミは足を止め、立ちすくむ。
 それは母さんが話してくれた、幸せな犬の物語だ。
 利口で勇敢な犬が、最後には慕う主人と同じ人になったという。お伽話じゃない。本当のことだ。
 だって、そのお話の犬が目の前に居たのだから。
 セリカは、マウに背中を向けたまま、ただ吼える犬を見下ろしていた。
 どんな表情をしているのか、マウからは見えない。
 でも、セリカは哀しんでいるような気がした。
 少女は、栗毛の犬――弟に話し掛ける。
「人はなるものじゃない。最初からそう生まれてきたのよ。人は人に、犬は犬に、鳥は鳥に」
 一音一音、ゆっくりと丁寧に少女は言葉をつむぐ。
「《藤野》の名前を手に入れて、私は《悪魔》と呼ばれるようになった。……わからない? 私を倒したところで、あなたが手にするのは、」
「そんなの、話が違う」
 犬がセリカの声に被さった。
 マウも心の中で、犬の言葉に頷いた。
「そう、全部《兄弟》たちに夢を与えるための嘘。さっきの私を見て、あなたは何に見えた? それが、答えよ」
「人間だっ。誰より強い。誰より――」
 犬は悲痛な声で叫んだ。




5/人になった犬のお話

  狂犬セリカを倒せば、僕らは人になれる。
  ずっとそう聞かされて、育ってきた。
  人になれば、母さんと暮らせる。それだけを願って。

  その母さんが逃げて。
  でも、母さんの言葉が本当ならいいと。
  人になる夢だけは。

  ――なのに。

「そんなの嘘だ」
 マウは呟いた。額に皺をよせ、その瞳は揺れていた。
 声をききつけた少女がゆっくりと振り返る。濡れた栗色の髪が頬に張り付いていた。
 少年がいたことに驚いたりしない。犬の鼻だ、マウがそばに居ることを知っていて口にしたのだ。
 セリカの顔に浮かぶのは哀れみと同情。
 セリカは言葉を紡いだ。
「私たちには《餌》が必要だった。人と人の殺し方と力の使い方しか知らない私たちにも理解しやすい《餌》が。それが本当は存在しなくても、誰も食べることができないのだとしても、欲しいと願うようなモノが。それなのに《餌》に到達する者が現れた。それが私。規格外か、突然変異かもしれない。そして、約束通り、私は人の戸籍を《藤野》の名前を手に入れた。――でもね、」
 地面にうずくまったままの犬も、肩を落としたネズミも黙してセリカの話を聞いていた。
「学校に通えるようになって、一つだけわかったの。《藤野セリカ》は、人のフリしかできないって。……頼まれたのよ。年下の《弟》たちを教育してくれって。人になれた《兄弟》がいると思えば、それが励みになるから」
「ふざけるなっ!」
 負け犬が吼える。人とも犬の鳴き声ともつかない言葉で、喚き散らす。
 なぜ夢を叶えたはずのセリカが哀しそうにしていたのか、どうして本気にならなかったのか、マウはようやくわかった気がした。
 人になれたと騙している弟たちへの引け目と、指導するのが目的で、元より殺しあうつもりはなかったのだ。
 ――いや、本気になるまでもなかったから。
 マウは唇を噛んだ。錆びた血の味。

   母さんは、何一つとして本当の事は教えてくれなかった。
   それなら――もう。


 セリカは空を見上げた。雲の薄い部分からは光が零れ、風が匂いを運ぶ。
 雨、水を喜ぶ草、錆びた鉄。そして、人の匂い。
「マウ。行きましょう。まだ、終わっていないから」
 這いつくばる犬はもう、残った腕で地面に爪を立てることしかできなかった。
 マウは頷くと、セリカの後について歩いた。

 逃げ出した《兄弟》のことは片付いた。
 後は、彼らをそそのかした人間だけ。


 +――+――+

 工場と工場の間に止まるワゴン車。スモークガラスの隠れた車内で、女は額に手を置いた。顔は真っ青だった。
 隣に置いてあるモニターからは、ノイズが流れていた。
「あんなのっ。あんな化け物に勝てるわけないじゃないのっ」
 犬につけさせていたカメラは、狂犬セリカ(ディアボロス)の攻撃を受けたときに壊れたのだろう。録画した映像など、見るまでもない。自分の自信作は負けたのだ。
 最後に映った光景、手塩にかけた――セリカと同じ血統の犬の腕が千切れる様が、網膜に焼き付き頭からはなれない。
 怖かった。
 モニター越しで、悲鳴を押し殺したその時、負けを認めていた。
 自分の作品の強さをみせて、売り込もうだなんてとんでもない。これじゃあ、赤字だ。そればかりか、首にされるかもしれない。ああ、いや、悪魔の恐ろしさを伝え、彼女についての知識を売ろう。
 女は考えをまとめると、ハンドルを握った。
 長居している暇はない。
 車が走り出す、空から黒い影が落ちてきた。足だ。若い少女の足が、カカトで隣の座席のフロントガラスを突き破る。細かく砕けたガラスが女の膝にもかかった。
 少女の指が、残ったひび割れた幕を引っぺがそうと掴んでいた。手の持ち主と目が会う。黒々とした、白目の少ない犬の目だ。
 シートベルトをしてなかった女は、ドアを開け路上に飛び出した。逃げながら振り返る。なまじ太股近くまでガラスを貫いたせいで、狂犬セリカはすぐに追ってこれないようだった。
 前をみていなかった女のつま先に硬い物があたった。その中身は空洞で、カラカラと大きな音を立てて転がった。誰がこんな所に缶を捨てたのか。
 転がった缶が、長いズボンに隠れた足にぶつかって止まった。少年の足だ。
「……ねぇ、母さん。どうして僕を置いていったの?」
 女は驚いて顔をあげた。突然の事に声がでない。
「一緒に暮らしてくれるって言ってたのに、どうして?」
 マウは質問を続けた。その目は、女を睨み、どこか涙をこらえてるようでもあった。
 女は少年の肩を掴むと、擦れた声で言った。
「捨ててなんかないわ。後で迎えに行くつもりだったの。マウ。お願い。貴方しか居ないのよ。助けて」
 女が掴んでいる場所は、猫にひっかかれ血が滲んでいた。
 女がマウをゆする度に、少年は痛みに顔を歪めた。
「猫の事は? キャムとかいう猫は、僕がネズミになれないって知ってた。僕のこと話したんだよね? でも、あの猫は僕を殺そうとしたよ。――どうして?」
 俯いたまま少年は問いかける。
「それは……そう、猫が勝手にやったの。私はちゃんと言ったのよ。でも、あの猫ったらわがままで、やっぱり、貴方でないとダメだわ。だから」
 女は一度、少年を強く抱きしめると、少年の陰に隠れた。
 制服を着た少女が、手を差し出して歩いてくる。
 少女が一歩近づく度に、女が震えた。
「マウ。そのまま、捕えていて下さい。もう時期、他の人が駆けつけますから」
 少女の言葉はあくまで事務的なものだった。
 女は少年の背に声をかける。猫も犬も負けて、もう、他に頼れるものはいなかった。
「マウ、お願いよっ。私、いいお母さんだったでしょう。ご飯は必ずあげたわ。服も、部屋だって綺麗だったでしょう。毎日私が掃除したのよ。ねぇ、一緒に暮らしたいんでしょう。だったら、戦って。そして、今度こそ一緒に暮らしましょう」


 ネズミは、母の嘘を知っていた。掃除は、それ専用の人がいたし、食事も同じだ。僕が外に出て、セリカと対決する日になるまで、顔も見せてくれなかった。用意してあった服についていた匂いと、母の匂いは違った。
 母の匂いが残るのは、あの日締めてくれたネクタイだけだ。
 それでも、ネズミは頷いて、母の前で腕を広げた。
 狂犬セリカを先に行かせないように。
 母が、自分を残して駆け出すのがわかった。
 少女が差し出していた手を下ろす。
「ごめん、セリカ」
 マウは、栗色の髪の少女に謝った。
 今は嘘ばかりでも。これで、もしかしたら母が自分をみてくれるようになるかもしれない。見直してくれるかもしれない。ずっと、側に居てくれるかもしれない。
 ネズミは、ナイフを抜いた。
 藤野セリカは、淡い笑みを浮かべた。
 それはどこか物憂げで。
「寂しいね。君には、もっと外を案内したかったのに」
 言い終えるのと、少女の姿が変わるのは同時だった。
 服の上から覆う毛並みは硬く、黒く、足元は赤く、それは闇に燻る炎のように。爪は鋭く、指そのものが刃のように鋭く、長く前に伸びた顎はどこか犬を思わせる牙を並べて。均整の取れた体に、無駄はなく。隆起した胸に沿って、硬い鎧のような物が覆った。人のようであり、犬のようであり、そのどちらでもないモノ。悪魔(ディアボロス)の名に相応しい姿へと変わっていく。
 狂犬セリカは役目を果す。それが忠心を貫き通して《藤野》の名をも手にした犬の決意。
 後ろであがった悲鳴に、マウは振り返った。
 ――他の、人間の追っ手が来てしまったのだろうか。
 違った。
 豹のように大きな黒猫が、ずぶぬれのまま口に女をくわえて塀の上へと跳ぶところだった。
 そのまま、倉庫の屋根上まで、女を連れて行くと大きな黒猫は口を離した。猫の口からは子供の声がした。
「あはっ。頑張って時間稼ぎしてよ。でも、母様はキャムだからね。『弱いネズミより、強い猫の方がいい』って、言ってたけど、ネズミだって時間稼ぎくらいはできるもんね」
 女を加えなおして、走り去る猫。
 マウは泣きべそで、悪魔へとか細い牙を振るう。
 雲の隙間からは光が差し込める。その光に、セリカは目を細めて、
「こんなに、外は綺麗なのにね」
――どうして、戦いは終わらないのだろうね。
 セリカの呟きを最後まで聞かずに、マウも変化した。
 ネズミの姿をとれないわけじゃない。人は、ネズミなんかにならないから、真似をしていた。いつか、人になれたとき、ネズミになれたら変だからと。
 少年の姿が歪む、それは人になるのを諦めたネズミ。それでも、母へと尽くすネズミ。子供すら食べてしまいそうな貪欲な母へとつくす、哀しいネズミ。
 最後に、母の心の中に残るのなら、それで――。
 悪魔は笑う。変化を解いて優しく、微笑む。
 それは、マウがずっと望んでいた。
 母に求めていた微笑で。
「伝えたかったな。『弟たち』に」
 そういって、藤野セリカは目をつむる。
 その少女の背後、横合いから、ジャケットを羽織った片腕の無い青年――どこか少女と似ている――が飛び出すと、手にした刀を少女へと突き出す。
 自分が駆け寄るのと、青年が刀を突く動作の両方が酷く緩慢に思えた。
 そんな中、マウの頭だけが物を考えた。セリカが猫や青年の接近に気づかなかったわけがない。それより、どうして化生をとくのか。彼女なら、自分も、片腕の――おそらくグラウンドにいた犬だろう青年を同時に相手どり、そして勝つだろう。
 セリカの小さな唇が動く。
 歌う暇など、無いのに。いつもの唄を口ずさもうとしているのだとマウにはわかった。
 ――最初に会ったあの日、青空の下、学校の屋上で佇んでいた彼女がなんでああも哀しげなのか、ネズミにはわからなかった。
 母は、マウを励ましネクタイを結んでくれたが、ネズミの顔はみなかった。
 ――でも、セリカは真っ直ぐに僕を見た。前も、今も。
 その顔が、どこか寂しげだったのは。哀しげなのはどうして?
 マウは短い時間の中、必死に考えた。
 背後に迫る刀にも気づいているだろうに、狂犬セリカは動かない。その刀が確実に心臓を狙っているのに。
 そして、自分も止まれない。頭と違って、身体が酷く重く感じられた。指一つ動かすのもままならない。
 あれだけ強くて、幸せを手にしているはずのセリカはどうして寂しそうだったのか。あんな笑顔を浮かべれたのに。
 その笑顔を奪われようとしているのに、なんで戦う意思を見せない。
 手の届きそうな場所にセリカの顔があった。
 穏やかで、優しい顔だった。
 でも、少女の後ろに立つ青年には、この顔が見えていないのだ。
 マウは僅かに腕を広げてた。
 少女の身体を避けたその手を横に払う。その柔らかい肌がナイフの刃や爪で傷つけたりしないように、手の付け根と腕を使った。
 代わりに現れるのが鋭い刃。鍛えぬかれた銀の牙。
 刀を手にした青年の目が見開く。
 貫いたのは、灰色のネズミだった。
 その毛と肉が絡むのと、片腕で力が入らないのとで、刀が抜けなかった。
 ネズミが抜かせるまいと、力をこめているのだ。
 そればかりか、ぶつかったネズミに押し倒された。
「くそ……狂犬を殺して、人に……」
 大きなネズミの下で青年は苦しげに、息も絶え絶えに言う。
 唯一ある片腕も、ネズミの下から動かせなかった。
「マウ!」
 倒れこんだ姿勢のままで、セリカはネズミの名前を呼んだ。
 助け起こそうと、灰色の毛並みに手を伸ばす。
「よせやい。狂犬セリカ(ディアボロス)は、任務に失敗したことがない。だろ?」
 ネズミは無理して、マウの姿に戻る。マウスのマウ。実験体のマウ。はいて捨てるネズミ。
 少年の姿に戻った後も、膝の下には青年の腕を、片腕は青年の喉を抑えこむ。路面に広がる赤い液体は、刀を伝ったものかそれとも、青年の失った腕から出たものか。
 少年は、首だけを動かして、セリカの方をみた。
「夢だった。あんたみたいになりたいって、ずっと夢見てきた。その夢、最後まで見させてよ」
 見上げるマウの目に映るのは、空と虹と心配そうに覗き込むセリカの顔。雨に冷えたのか頬は白く、栗色の髪は乱れているし、それでも――。
「綺麗だな」
 感じたままに、マウは口にした。
 そして、静かになった。


 狂犬セリカは、涙を知らない。
 知る前に、全てを手にかけてしまった。
 話しておけば良かっただろうか。
 人の名と悪魔の名を手に入れた代償に、失った物のこと。
 酷使させた身体の中はボロボロで長くないのだと。

 悪魔は飛び立つ。
 他にやれることを知らないから。


 +――+――+



 巨大な黒猫は、人を背にのせ屋根の上を軽々と渡っていった。口で運んでいたら、母様が背中に乗りたいと言い出したのだ。
「ねぇ、母様。落ちちゃダメだよ。ドッグはどうしたかな。偉そうにしてたのに死んじゃった? くすくす。母様にはね。キャムがいるからへーきなの」
 栗毛の犬、青年の名を言いながら、猫は渡る。
「え、ええ、そうね」
 猫の首を抱きかかえるようにして、足元はできるだけみないようにしながら女は答えた。
 その声色が強張っているのも気づかずに、猫は上機嫌だった。そして、口元をペロリと舐める。
「絶対あとで仕返ししてやるんだから」
 そして、屋根の上で伏せた。
 そろそろ、日差しも出て来て、猫の姿でうろつくのは目立ってしまう。足元を車が通りかかったら、飛びかかろうと猫は身を屈めた。
 ふいに日が陰る。
 と、女が背中を押した。
「何、母様――ぐぇ」押したではなく、押しつぶされた。
 それも、人間の力じゃなかった。
 誰かが、背中の上の女ごと、猫を押しつぶしているのだ。
 猫は四肢に力を込めて、暴れた。
 声が頭上から聞こえた。
 それは事務的に、淡々としていた。
「私は、あなたがたを生かしておくようには命令されていない。『外部に漏れなければ、生死は問わない』と言われています。大人しくして下さいませんか? でないと……」
 みしり、と屋根が嫌な音を立てる。
 それ以上に嫌な音が、身体の中から聞こえてくる。
 猫の耳もとで、小さなうめき声がきこえた。

 ――やめて、助けて、死にたくない。

 猫も同感だった。
 そして、抗うのをやめた。





*/エピローグ



 テラスの手すりに腰掛けて、狂犬セリカはお日様に歌う。
 栗色の髪を日に透かし。
 何処かで聞いたこの歌を。
 何処かで聞いたメロディに載せて。
 それは、人の作ったモノだから。


   笑ってますか? アナタとワタシ
   笑えてますか? アナタとワタシ

   残った写真は、笑っているのに。
   電話がひとつ。それでおしまい。


 狂犬セリカは今日も歌う。
 遠吠えのできない喉で。
 毛の無い肌に制服の袖を通して、細く長い指で鞄を掴む。
 黒い瞳は、壁にかかったカレンダーを映して。
 ひとつ頷いて、外に出る。


   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ


 自転車を横目に、セリカは走る。
 街をじぐざぐ、好きな景色の好きな匂いをかぎながら。
 大きな声で歌を歌う。


   セミが鳴くよ 夏のセミよ
   湿気と日差しが 緑を照らすよ
   子供が笑って走ってく
   学帽押さえて走ってく

   それは、過去をひきつれて
   青空いっぱいの入道雲と一緒に


 道行く人が、楽しげな少女を視線で追う。
 どんな良い事があったら、あんなに笑えるのだろう。
 急な坂も、歌いながら駆け上がれるのだろう。
 そんな事を思いながら、少女を見送る。


   子供の声が遠ざかり

   冷たい風が 頬を刺す
   冷たい風が 木の葉を散らす
   赤と黄色と茶色とワタシ

   それと、最後に、背広姿ではにかむアナタ



 少女が、白い建物の敷地に入ったとき、丁度相手が出てくるところだった。
 片方は少年。短い髪に中学生くらいにみえる。少女に気づいて、顔を明るくするも、すぐに隣にいる青年を横目で見て、不服そうに口を尖らせた。
 もう一方は青年。少女と同じ栗色の髪をして、どこか似た顔立ち、こちらは大学生くらいだろうか。隣の恨みがましい視線を涼やかに受け流し、やぁ、と残った左腕で少女を出迎える。
「セリカ。なんで、ドッグ(こいつ)まで居るんだよ」
 少年ことマウは、胸の傷に響かないよう気を配りながら口にした。
 青年ことドッグは、残った腕を腰にやって少年の顔を覗き込んだ。
「おやおや、これでも私は彼女の弟だよ。君とは違って、血を分けた実の、ね。良いじゃないの。同じ負け犬同志、仲良くやろうよ。――もっとも、まだ人の座を諦めたわけじゃないけどね」
 そう言って、手を振り駆け寄ってくる姉へと視線をあげる。
「てっ……!」怒鳴りつけようとして、マウは顔を歪めて胸を抑えた。やれやれ、とドッグは肩をあげる。
「ドッグ。マウをからかうのはそれくらいにしてよ」
 セリカが満足そうに声をかける。
 二人を同じ部屋にして、仲良くなったのだと――そう思い込んでいる顔だった。
 そうしていると、たった今入って来たタクシーのドアが開く。車が止まるのも待ちきれないというように、長い黒髪の女の子が顔を出した。
「やっほーぅ。ドッグ。ねぇ、何楽しそうにしてんの。キャムも混ぜてよ」
 そんなこと言いながら、女の子は青年に飛びついた。そうして、すぐに青年の陰に隠れたあと、隣の少年に向けて舌を出す。河に流された怨みを忘れていないのだ。
「何だよ。てめぇ、もう一回溺れたいのか」
「べーだ。うるさいよ。マザコンネズミ」
 マウが荷物を放りだして、後ろを向いてあっかんべーをしたまま走るキャムの後を追いかける。
 そんな二人をセリカは声を出して笑った。
 そんな涙目を擦る少女の肩を、片腕の青年が指先で軽く叩いた。そうして、小声で問い掛ける。
「《母》は――私たちの担当者はどうなりました?」
 セリカはすまなそうに、
「あなたたちの《母》のことは聞かされていない。ただ、《兄弟》の担当からは外されたみたい。それで、彼女が面倒みていた兄弟たちは、身寄りがなくなったのだけど――」
「それを処分せずに引き取った? 全く、物好きな。いえ、感謝はしてますよ。同じ家に住むなら、何度だってあなたの命を狙えるのだから」
 青年は片腕失ったんだ、これぐらい言って当然と胸を張った。外見ばかりで、どうにもこういうところが幼いと、セリカは笑う。
 そして、少女は腕を広げて軽く前にステップを踏むと、
「いいよ。欲しいなら取りにおいで。……決して離さないから。この悪魔の渾名だけは、もう誰にも渡さない」
 後ろに立つ青年に向けて、微笑みかけた。
 ネズミが猫を追いかける珍しい姿をみながら、セリカは新しい家族を喜んだ。


 狂犬セリカの歌はおしまい。
 朝の散歩はこれで、おわり。



...おしまい

 

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