残像少年

2005年春 作:酉(とり)


 彼は毎朝遅刻ぎりぎりに抜け道を通って、学校に通っていた。
 今朝も彼が来るのを沢山の人が待っていた。
 仕事盛りの会社員や主婦たちが大半で、中には彼を見ようと来る観光客もいた。
 そうして待つこと数分、ある家のブロック塀を突き抜ける様にして彼が現れた。
 いや、彼が現れたときから、そこにあった家も塀も消えさり、そこは小道に変っていた。
 昔、そこは道だったのだ。
 懐かしと驚きの歓声が人の口から昇る。彼がつれてきた昔の町並みに、涙を浮かべる者さえいた。
 残像を見て人々が口々に語るのにも気付かずに、彼は道を曲がる。
 そして、林の中へと消えていった。
 とうの昔に焼け落ちた学校に通うために。

 彼の姿は町のあちらこちらで目撃されていた。
 焼け落ちた並木道、焼け落ちた商店街、焼け落ちた町並みと共に。

 人は彼を残像少年と呼んだ。


   */


 セミの鳴き声が、住宅街を響き渡っていた。
 スーツの上着を脇にかかえ、鞄を持って男は照りつける陽射しの中、
 コンクリートで固められた道路を歩いていた。
 ワイシャツの袖をまくり、少しでも暑さを逃がそうとするものの今度は肌が日に焼ける。
 汗を拭うハンカチは、ぐっしょりと濡れていた。
 タオルを用意するべきだと悔やんでも、もう遅い。

 何処か木陰を探して一息つこうかと考えたとき、ふいに太陽が陰った。
 あれほど騒がしかったセミの音が止み、男の目の前を赤い紅葉の葉が、はらりと落ちてきた。
 そんな馬鹿な、と顔を上げる男の目に映ったのは、季節はずれに赤く色づいた立派な紅葉の木だった。
 いつの間に降り積もったのか、足元で落ち葉がガサリと音をたてた。
 驚き戸惑う男の脇を、誰かが走り抜けた。

 振り返ると、それは古めかしい学生服に身を包む少年の後姿が見えた。
 男は少年の向こうに広がる光景に、我が目を疑った。
 そこには、古い木造建築の家屋が並んでいた。空が広く感じるのは、背の高い建物が無いからだ。
 懐かしい、と男は思った。
 男はこの光景が過去のものなのだと、気付いていた。
 この町並みの何処かに、まだ赤子の長男を抱えた妻が居る。
 彼女は、家の門まで毎朝見送ってくれていた。
 そんな入社して間もない頃の思い出が、脳の中に蘇る。

 少年は通りの向こうへと駆けていく。

 彼の後を追えば、あの頃の妻に会えるだろうか。
 もう一度、やり直せるだろうか。
 いつの間にか、男の汗はひいていた。



 けたたましいセミの鳴き声。
 男はまぶしい太陽の光から、手で作ったひさしで目を庇った。
 あの立派な紅葉の木は無く、代わりにマンションが立っていた。
 コンクリートの道路には陽炎が昇るだけで、何処にも落ち葉は見当たらない。
 そうして男は、少年の消えて行った通りとは反対方向に歩いていった。



 少年と初めて出会った人は言う。
 あの残像の中に飛び込めば、過去に戻れる気がした。
 そうすればやり直せるのじゃないかと。

 しかし、誰も残像の後を追えた者はいなかった。









 アパートの外階段を登り、ドアを開けると部屋の明りをつけた。
 玄関に溜まったゴミ袋を避けて、靴を脱ぐ。
 一部屋だけ、自分が眠れれば言いだけの小さな家。
 部屋のちゃぶ台の上には、弁当の空き箱やペットボトル、空き缶が散らかっていた。
 鞄と上着を置くと、男はネクタイを緩めながら受話器をとった。
「ああ、俺だ。どうだ、そっちは元気にしてるか? …そうか」
 数ヶ月ぶりに聞く妻の声は、こちらから電話したことに戸惑っているようだった。
 
「なぁ、今度、一緒に食事でもしないか。」



...おわり

 

[ 小説一覧へ ]


製作: TRK eXpress